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「デザートは果物が良い」
畏まりました、僕のお嬢様。
葡萄
空色のタイルを貼った浴室を彼女がとても好んでいるのは、一緒に住み始めてから早い段階で気付いていた。
夏が遠くへ行ってしまい秋が深まると、楽しむように湯船と閉じこもるのも。
彼女を奪われた僕は入浴後のお茶とデザートを用意してそわそわ待つ以外にすることが無いから、火照った頬にタオルをあてながら待ち人が戻ってくると、すぐに両腕の中に閉じ込めてしまった。
「イバラ?」
「マリ、良い匂いがする」
「・・・まだ鮭とバターの香り残ってる?」
夕飯の残り香を気にして濡れた髪を摘み匂いを嗅ぐ彼女が愛らしくて、僕はぎゅうと抱き締める。
「大丈夫だよ、鮭のホイル焼きじゃなくて石鹸の香りだもん」
「・・・なら良い」
「んー」
「イバラ、歩けない」
緩い拘束はあっという間に解かれてしまった。
ちぇ、と小さく舌打ちをするけれど、彼女は気にも留めずに窓に向かって置いた白いソファへと歩み寄る。
そして、床に置いたドライヤーで髪を乾かし始めた。
ちぇ、ともう一度舌打ち。
けれどすぐに気を取り直すと、台所へ向かい冷蔵庫から用意しておいたお皿を取り出した。
その音に気付いたのだろう、熱風を髪に当てながら彼女はこちらを振り返る。
「デザート?」
「うん。何だと思う?」
「・・・果物?」
「勿論」
彼女が浴室へ閉じこもる前、果物が食べたいと言っていたから当然それを用意していた。
「・・・ヒントは?」
「僕の目の色」
「葡萄」
「正解」
あっさり当てられてしまったけれど、悔しい気持ちは微塵も無かった。
よく冷えた紫水晶を片手に、彼女の元へと向かう。白く小さな手はドライヤーの電源を切りこちらへと差し出されたけれど、僕は首を横に振って見せた。
「乾かしてて良いよ」
そう告げると、早く食べたい、と少し拗ねた顔をされる。
あまりにも可愛くて思わずお皿を渡したくなったけれど、堪えてもう一度首を振るとドライヤーを再開するよう示した。
ごぉぉ、と不満げな音が再び響き始める。
床にぺたりと座るのは、冷たいのが気持ちよいからだろう。僕も同じように座り込むとソファテーブルにお皿を置き、房の中から果実を一つ摘み離した。
恨みがましい視線を感じるけれど、気にせずに深い紫の皮を剥いていく。
熟れた中身を半分に割り種も取り出すと、渋々ドライヤーをかけ続けている彼女の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
にこにこ笑いながら告げると、彼女は驚いたように小さく目を開いて固まる。
恥ずかしがって嫌がるだろうな。そう思いながら、じっと手を差しだし続けた。
果汁が指を伝い床へ落ちるけれど、後で拭けば良いだけだから、気にしない。
悪意に見えると良い、なんて思いながら悪戯を楽しむ笑みを深めてみせた。
そのまま数秒。
長く続くと思った膠着状態は、すぐに終わりを迎えた。
体勢は崩さず、彼女の上半身がこちらへと伸びる。
小さく赤い唇はぽかりと開き、そして指先で摘んでいた果実を浚っていったのだ。
驚いて、今度は僕が固まってしまう。
その様を横目でちらと見遣ると、彼女は咀嚼した実を飲み込み、同じ唇で言った。
「もっと」
白い指が、長い髪を乾かす。
ごぉ、とドライヤーの音が唸ったのと同時に、僕はこくりと頷いた。
皮を剥き、種を除き、口へと運ぶ。
それを何の疑問も持たずに飲み込む彼女は雛鳥のようで、けれど僕が抱くのは親心ではなく征服欲だ。
真っ白い無垢な目の前の存在を、自分の色に染め上げたい。
目の前の吸血鬼がそんな事を考えていると、少女は分かっているのだろうか。
風呂上がりの無防備な首筋は、噛みついて痕をつけたい衝動を煽るには十分で、こくりと空気を飲み込んだ。
例えば今ここで欲しいと言えば、彼女は躊躇いもなく上着の裾をたくし上げ心臓に近い部分の皮膚を差し出すだろう。
白い柔肌に牙を突き立て、命を啜り、最後に秋の実りの味がする唇へ口付ける事が出来たなら。
そう思うのを止めろなど、誰に言う事が出来るだろうか。
思うだけだ。
絶対に、しない。
長い長い黒髪は、乾くまでにとても時間がかかる。
葡萄を一房、剥いては食べるを繰り返す内にようやく余計な水分の無くなった漆黒に、彼女はかちりとドライヤーの電源を切った。
最後の一粒を差し出しながら、衝動を抑えて笑みを浮かべる。
「美味しかった?」
「うん」
そう返事をして葡萄を口へ含んだ彼女は、一旦指先から離れた唇を再び寄せてきた。
「っ」
指についた果汁を、ざらりとした舌が拭う。
爪の先を、指の間を、掌を、執拗なほど丁寧に辿っていくそれに、思わず顔を背けた。
欲望を煽るだけの行為に、彼女は気付いているのだろうか。
さらりと流れた髪が皮膚を掠めるだけでも、ため息を吐きそうになるほどで。
ちぅ、と音を立てて指から離れた唇。
次いで、あ、と高い声が彼女からほろりこぼれる。
なるべくそちらを見ないようにしていた僕は、何かと思い最大限の理性を発動させて顔を向けた。
そして、思わぬほど近い距離にある彼女の顔に、再び固まった。
「イバラ、食べなかったね」
そう囁くなり、唇が降ってくる。
以前、一度だけ彼女から口付けられた事があった。
その時は啄むだけで離れていったそれ。
けれど今、予想に反して温かな舌が咥内へと滑り込んできた。
たどたどしい柔らかなそれは、そっと迷子になったように歯茎を辿った後、舌の先へと触れてくる。
絡めてやると安心したように目の前の肩から力が抜け、より深く潜ってきた。
先程まで彼女の食べていた葡萄の甘さが、ふわり、広がる。
頭の芯が痺れるような感覚に、本気で恐怖を覚えた。
もしもこのまま、我を失って彼女を喰らってしまったら。
自分はどれだけ後悔するのだろう。
たった数秒だったというのに、永遠にも似た時間。
そっと離れて自身の唇についた唾液を舌で舐めとる彼女を、思わず強く抱き寄せた。
「イバラ?」
葡萄の味がすると思ったんだけど嫌だった、と揺れる声で問われる。
それに対して首を強く横に振ってから、ありがとう、と吐息に乗せて伝えた。
でも、伝えたいのは、もっと違う事だ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
君を守りたいと思うのに、一番危ないのはこの腕の中だ。
手の届かない場所に逃げて欲しいと祈るのに。
もう二度と手放すものかと願う自分。
「ありがとう」
もう一度。
謝罪をすれば、きっと変に思うだろうから。
「葡萄、ありがとう」
体重を預けてくる体温が、どうしようもなく愛しくて憎らしくて。
緊張に震える指を隠しながら、せめてと思い頭のてっぺんへ口付けを降らせた。
「マリ、マリ、好きだよ」
請うように囁く。
自分に都合の良い言葉だけ。
だから、早く僕から逃げて。
いつかその命を喰らってしまう前に。
(葡萄よりも、君の血の方が甘いんだよ)